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俺のモノは俺のモノな雑記

どうも、初めて広告記事が登場した気がした後の更新です。
いままでも一カ月以上放置してたことあるはずなんですがどうして今回初めて出てきたんでしょうか、少々謎です。
広告が出てくるのは承知の上で更新頻度を落とそうとしてたのですが、広告の内容がちょっとアレだったのでちょっとどうにかしたいな……(カテゴリをアダルトにしてるからしょうがないのだけれど)。


さて先日、「ジャイアニズム」(vol4)という雑誌に50Pにも及ぶスチパン特集が載るということでホイホイと購入してきました。二冊。
「これでいつものTGと同じ値段かよ倍してもいいだろ」と思う程度に豪華な内容で(複数買いの理由)、信者的にそれはもう素晴らしい本だったわけですが、特集の一つである「桜井光×鋼屋ジン対談」に一エロゲーマーとしてナカナカ興味深い件があったので少々そのお話を。
(以下引用はいずれも「ジャイアニズム vol4」の「桜井光×鋼屋ジン対談」からです)
(そして敬称略)



当該部分はP125からP126、

これは『腐り姫』、『Forest』の頃からそうだったのですけど、立ち絵に合わせた背景を作るということをやめてしまって、大きい背景と小さい背景を組み合わせる演出を使いました。バストアップなりカットインなりというのは象徴的なものであって、あなたたちは世界を切り取った窓としてのゲーム画面を見ているわけではない……『インガノック』もそのやり方で作ってみました。


という桜井光の発言と、それを受けての

紙芝居であることを否定しようとして、プレーヤーとキャラクターの視界を一致させていこうとつきつめていくと、最終的にはアニメーションになってしまうんですよ。どこかの地点で、記号であることについて自覚的でなければならない。


という鋼屋ジンの発言です。



ここで引き合いに出されている例としてインガノックにおける画面構成というのを具体的に見てみると

『赫炎のインガノック』第五章

こんな感じ。(『赫炎のインガノック』第五章(体験版範囲)より)
都市下層であることを示す大背景、無限雑踏街であることを示す小背景、そして話者を示す立ち絵とバストアップ。主にモブキャラは左のような色彩の薄い立ち絵で、メインキャラは右のようなバストアップで表示されます。メインキャラ同士がしゃべるときにはバストアップが入れ替わって表示され、バストアップが画面上に同時に登場することは(確か)ありません。
またシリーズの後続作では、モノローグ時にテキストウインドウに背景としてキャラの表情が表示されたり。

最近の作品は演出に凝ったものが増えてきて、立ち絵がグリグリと動いて画面によって場面が再現されるような、紙芝居から人形劇とも呼べる進歩を遂げてきています(udkさんのブログ記事から言葉をお借りしました)。一方、この『インガノック』の画面は空間的な何かを再現してるわけではもちろんなくて、シナリオ上は場面と話者を示す程度の役割しか果たしていません。世界を映す窓ではなく、何かを間接的に示しているすぎないのです。だから全然画面は動かないし、色がない立ち絵などという普通の作品ではまずありえない存在がさも当然のように画面に息づいている。

このような画面構成はいまのゲーム業界にあって異質なものかもしれませんが、鋼屋の発言にあるように、人形劇というのを完璧に突き詰めようとすると、それはいずれアニメーションになってしまう。
けれどそんなことをしなくても、象徴的な意味しか持たない静かな画面を通して、この『インガノック』は生きる人々を描き出していた。「描こうとする対象を具体的に再現すること」なんていうことなんてしなくても、何かを描くことは充分にできるのです。

また僕が前回の「ビジュアルノベルであるということ」に書いたように、「描こうとする対象を具体的に再現すること」というのは、それは文章の目的ではないし、なそうとすれば文の存在は邪魔にしかならない。
そして、その再現自体を目的とすることには意味がない。文学やビジュアルノベルに限らず、何かを描き出す行為というのは、何かしら記号的な、象徴的なものを込めて行なわれることのはずだから。

息を吐くように再現することができるというのなら、いくらでも再現すればいい。実際、映画とはそういうものです。けれどビジュアルノベルというのは素材の寄せ集めであって、何かそのものではない。だから、再現をなそうとすればそれだけで相当のリソースを必要とするはずなのです。
その上で、その再現で何を成そうとするのか考えることは相当にきついことのはずです。そしてそれには、アニメに劣った何かにしかならないのではないかという懸念が常につきまといます。
それくらいなら、いっそ象徴的・記号的であることをつきつめていくべきなのではないか、ビジュアル「ノベル」としてはそれがふさわしい形なのではないだろうか。

いうなれば、キャラクターが生きているように「見える」のではなく、生きているように「思える」作品。それが、ビジュアルノベルの目指す姿の一つなのではないか。


……などと、記事の解説なのか持論の展開(しかもあまり整理されてない)なのかよく分からないことをやってしまいましたが、それだけこの対談で触れられた内容は、今の僕の関心と密接なところにあるものなのでした。



この後、桜井光はこのようにも述べています。

アニメーションを作りたいのではなくて、絵と音と文の融合を見せたい。その視点の誘導のさせ方と演出のやり方が大事なんです。



絵と音と文の融合を見せるということがどんなことなのか、そしてそれをどうやって見せるべきなのか……そんなことがこの対談で言及された、ということがとても嬉しかった。というのも、僕が件の文章を書いたときに”「描こうとする対象を具体的に再現すること」をしないこと”として念頭に置いていたのが、この『インガノック』をはじめとしたライアー作品たちにほかならなかったから。


そして僕の記憶に違いがなければ、『ロストクリスマス』(の体験版)はどちらかというと「紙芝居であることを否定しよう」としている演出であったような気がするのですが、鋼屋ジン自身がこういうことに言及している以上、そういうことではないのでしょう。いずれプレイして確かめてみたいところです(というかこの対談で激しく興味を持ちました)。





あと鋼屋が同部分で言及していた立ち絵について、戦闘演出と絡めて言おうとしていたことがあったんですが一記事としてまとまらない上に書く時間もなさそうなので今回はこれにて。

来月辺りユリイス名義カテで書かせてもらうかも? その場合二記事以降に渡る可能性があったり……。


(今回、慣れない書き方をしてしまったので、引用の方法など問題がありましたらコメントいただけると幸いです)
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ユリイス名義(レビュー、エッセー風味) | 【2012-10-06(Sat) 04:16:33】 | Comments(-) | [編集]

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