スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


スポンサー広告 | 【--------(--) --:--:--】 | Comments(-) | [編集]

ビジュアルノベルであるということ

【テンプレ】
「ユリイス名義」は、台鼎がオフラインで寄稿した文章の再掲や、常体でドヤ顔レビューしたいときに使う用のカテゴリです。
ドヤ顔で語ってますが情報にほぼソースや例がありません。脳内設定の恐れすら。
また、オタク全般に関する批評・レビューを専門にした本向けの原稿なので、エロゲレビューらしからぬ表現があったりします。

数年ほど前の原稿も含まれるので、色々変なことを言ってる可能性はありますがご了承ください。

------------------------------------------


1.ビジュアルノベルの画面が「動く」ということ

 動きのあるビジュアルノベルは持てはやされる。画面の動きの少ない作品が紙芝居などと揶揄される一方で、立ち絵がスチルが背景が……画面がめまぐるしく変化する作品はそれだけで高い評価を得るものだ。

 それらの「動き」にどんなものがあるかといえば、まず挙げられるのは立ち絵そのものの変形である。立ち絵の差分表示といった基本的なものから目パチ口パクという古くから行われてきた手法、最近でいえば『ウィッチズガーデン』でういんどみるが採用した「E-mote」まで、登場キャラクターを生き生きと描写するための工夫は、攻略キャラとの(擬似的な)コミュニケーションを目的に持つ美少女ゲーム、恋愛ゲームといった場で主に進化してきた。

 それをもっと拡張した、場面を描写するための工夫というものもあり、たとえば背景に対して立ち絵を動かすという演出は正にこの方向のもので、最近では高さや奥行きを導入したり、立ち絵の歩いているように動かしたり、といった工夫をしている例もよく見られるようになった(たとえば『恋色空模様』『猫撫ディストーション』)。また、『ef』などしばしば映画的と評される作品をリリースしてきたminoriは、カメラさえも細かに動かす対象として一つ一つの場面を多角的に表現しようとする先鋒であろう。また立ち絵の差分は、キャラクターそのものをだけでなく場面を描写するための存在であるとも言える。

 これらの工夫を組み合わせることによって「動き」という表現が実現されていくのだが、キャラを描写するにしても場面を描写するにしても、その「動き」という表現が目指そうとしているのは、グラフィックにおいて「描こうとする対象を具体的に再現すること」であると考えられる。キャラを、場面を、技術の可能な限り画面上に具現化することで、プレイヤーの心に臨場感を喚起させよう――というのがこれらの工夫の目的なのだ。

 しかし、そういった目的に最適な媒体が、ビジュアルノベルのほかに存在することに思い至らないだろうか。そう、それは映画――サブカルチャーの文脈に合わせるならアニメ、である。今しがたminori作品を「映画的」と表現したように、動きある場面や人物を画面上に再現するというのは、活動写真に端を発する映画と、そしてそれを絵画で構成するアニメという媒体が、ビジュアルノベルが生まれる何十年も以前から行なってきた表現なのである。

 ならば、ビジュアルノベルは映画になることを目指しているのだろうか。いやそんなことはない、映画とビジュアルノベルは根本的に違うのだ、という反論は出てくるだろう。なぜならばビジュアルノベルと映画には、テキストの有無という大きな差異があるからだ。ビジュアルノベルがノベルという名を冠しているのは、グラフィックという視覚情報とは別の抽象的な階層に――つまりメタ的に、画面上に文字を視認できるからにほかならない。そのテキストの存在とともに、二十年以上という映画ほどではないにしろ決して短くない歴史を歩んできたビジュアルノベルにとって、テキストという要素は欠かすことができないものとなっている。

 文字というのは、いわずもがな画面上に存在し、グラフィックとともに視認されるものである。だから当然、グラフィックの「動き」という表現をビジュアルノベルに取り入れていく上で、画面上における文字の存在を無視することなどできようはずもない。ならば当然、ビジュアルノベルの「動き」を考えることは遠からず、映画などではほとんど考える必要のない文字という表現についても改めて考えることにもなるはずなのだ。

 ビジュアルノベルにおいて「描こうとする対象を具体的に再現すること」を目指す「動き」が進化していく中、文字はどのように扱われることになるのか。そのことを考えるにはまず、「動き」と文字とにどのような違いがあるのかということについて考える必要があるだろう。



2.文字は時間を持たない

 「動き」と文字を認識するときに最も大きく違うと感じられるのは、恐らく、止まっているか動いているか――すなわち、時間の有無ではないだろうか。

 グラフィックにおいて「描こうとする対象を具体的に再現すること」というのは、とりもなおさず時間の進行をも画面上で再現することなのであり、それを果たすための表現が「動き」なのであった。言わずもがな「動き」にはそれ自体に連続した時間があり、その認識にかかる時間は「動き」自体が持つ時間に同期する。

 一方、文字は静止した表現である。文字で時間の進行を描写することというのは、文字自体に時間を持たせることではなく、文やフレーズの間に前後関係を持たせることだ。それを実現する方法が(時間を示すような)単語であるにしろ頁送りやクリックという操作であるにしろ、認識にかかる時間は読む側の読速度にしかよらないのであり、ましてやそれが描写された時間――たとえば「そして一万年後……」など――に同期することなど普通は起こらない(※1)。文字という表現は、文や語に分割されて連続した時間を持たない、いわば離散的な表現なのだ。

 離散的な表現である文字と連続的な表現とを同時に認識させようとしたとき、どのようなことが起こるか。それについてはまず、「動き」と同じく連続的な時間を持つ表現である音に関して分かりやすい例がある。

 キャラクターの台詞に対し、テキストだけ読んでボイスを全て聞きとらずにクリックして先に進めてしまった……ボイスのついたビジュアルノベルをプレイしたことがある者なら、多かれ少なかれそのような経験をしてはこなかっただろうか。音で描写された台詞を文字で同時に描写されたとき、結果として「(声色などといった情報が少ないはずの)テキストを無視する」よりも「(キャラの声と音を再現しているはずの)ボイスを飛ばす」という選択がなされがちなのは、音を認識するよりも速く文字を認識してしまうからにほかならない(※2)。この問題に対しては、台詞を可能な限り短くする(離散化する)ことで認識時間の差を小さくする、オート演出を行う、そもそも台詞に対して文字を表示しない……などという工夫が考えられるが、実際にそれを実践して成功させている例は多くはない。

 この認識時間のズレという問題は、「動き」でも起こるはずだ。そしてその時は恐らく、文字が無視されることになるだろう。ボイスという表現が文字そのもので直接描写されえるものに時間を付け加えたものであるのに対して、「動き」という表現に込められたものを文字で描写するには――特に「描こうとする対象を具体的に再現すること」を目指そうとするなら――あまりに多くの語と時間を必要とするからだ。そして更に「動き」に関しては、同じ画面上で静止している文字と動いているグラフィックの、その両方の内容を認識することが可能なのか、という問題も付きまとう。ビジュアルノベルのグラフィックを動かそうとするならば、ただ単にぬるぬる動かすというだけではダメで、文字に対して相応の配慮をする必要があるのだ。



3.文字が描写するもの

 文字への「配慮」をしようとすれば、困難を回避して「動き」と文字とを別々に認識させるか、その困難をどうにか解決して同時に認識させるか、選べる道は二つに一つである。

 前者を選んだとき、「動き」と文字は別々に見ることになるのだから、「動き」と文字は別々の意味を持っているはずだ。また、後者――「動き」と文字とを同時に認識させようという試み――を選んだとしても、「動き」と文字は別々の意味を持っていなければならない。たとえば「あるキャラクターの立ち絵が右から左へと移動する」という動きが具体的に表現されたとき、「右から左へ移動した」と同時に文字で描写することは無意味なのだ。片方だけを見れば「右から左へ移動した」という事実は分かるのに、そこでわざわざ両方を同時に認識するという困難(あるいは苦痛)をプレイヤーが選ぶことはないからである。これは先に挙げたボイスの例でも同じことが言えるだろう。

 同時に認識させるにしてもさせないにしても、「動き」と文字は違う意味を持つ……その事実を踏まえて、「描こうとする対象を具体的に再現すること」が進化していった未来を想像してみよう。グラフィックにおいて「描こうとする対象を具体的に再現すること」を目指すのが「動き」なのであった。だからその「動き」が進化していけば、グラフィックで描写されうること、つまり視覚的な情報は全て、グラフィックとして描写しつくされるに違いない。そのとき、文字は「動き」と違う意味を持つのだから、文字が視覚的な情報を描写することはなくなるはずだ。同じく音が進化していけば、同様に文字が聴覚的な情報を描写することはなくなってしまう。そうしてそのとき、「動き」や音は時間をも描写しているのだから、時系列なんかも描写されきっているだろう。するとどうだ、文字が描写できることがどれほど残っているというのか。少なくとも映画――先に「描こうとする対象を具体的に再現すること」に最適だと述べた媒体であれば、それ以上描写するべきことは残っていない(だから映画には文字がないのである)。あえて探すとしても、匂いや温度などの残りの五感、そして人物の思考や感情などといった、極めて主観的な領域にしか残されてはいないだろう。しかしそれらを文字で描写したとして、「描こうとする対象を具体的に再現すること」と呼べるかは甚だ疑問である。たとえ一人称であるにしても、五感や感情は言葉そのものではないからだ。

 ここまで来てしまうと、「描こうとする対象を具体的に再現すること」に対する文字の寄与がどうこうという以前に、そもそも文字という表現に「描こうとする対象を具体的に再現すること」など可能なのか、という疑問が湧いてくるだろう。そして恐らく、その答えはノーなのである。それは文字という表現が、具体的な再現とは逆の、描こうとする対象の抽象化にほかならないからだ。

 たとえば「右から左へ移動した」と文字で描写したとき、それは最初にいた位置を右、最後にいる位置を左と抽象化して、さらに最初と最後の間に起こったことを「移動した」という言葉で抽象化しているのだ。もし用いる言葉を増やしたところで――たとえ固有名詞や「具体的」な数字を並べ立てたとしても――それはより細かな形容であるに過ぎず、文字が描写しているものが物事を抽象化して形容したものであることに変わりはしない。そこには必ず「鑑賞する者が想起すること」に依存する曖昧さが存在するのだ。この曖昧さは、言葉や文字による表現……文学の本質であると言っていい。

 だから、文字という表現を残す限り、「描こうとする対象を具体的に再現すること」はそもそも実現しえないのだ。ビジュアルノベルは、ビジュアルノベルという形を保ったままでは「描こうとする対象を具体的に再現すること」には永遠にたどりつくことができないのである。



4.ビジュアルノベルであるということ

 娯楽という観点から言えば、画面が動くのは楽しい、キャラが動くのは可愛い……そういったことだけが厳然たる事実かつ第一の原理なのであって、ビジュアルノベルという形は二の次である。だから、たとえば現在はその多くがビジュアルノベルの形をとっている美少女ゲームも、これから「描こうとするキャラの具体的な再現」を究めていこうとするならば、どこかでビジュアルノベルという形を、文字の表現を捨てていけばいい。美少女ゲームの多くがビジュアルノベルであるのは、かつてはそれが、キャラクターの可愛さやそのキャラたちとの交流のシミュレートを描写するという点で最も優れていた方法だったからなのであって、より良い方法があればそちらに移っていけばいい……いや、移っていくべきなのだ。実際そういった流れはすでに存在するし、『ラブプラス』のヒットなどはその中で生まれたものであろう。

 しかしそのとき気付いていなければならないのは、そもそも「描こうとする対象の具体的な再現」というのが、少なくとも芸術や娯楽などといった文脈において、それ自体が何かしらの価値を持つものなのではないのだということだ。たとえば、「描こうとする対象を具体的に再現すること」を目指せば映画に近づかざるを得ないとはいうものの、それは決して映画が「描こうとする対象を具体的に再現すること」を目指しているということを示すわけではない。映画においてはその方法、つまり映像が「描こうとする対象」そのものになっているのだけなのであって、その映像に抽象的な何かしら――テーマや感動、あるいは単純な美、臨場感などといったもの――が込められていることによって、映像は映画という表現になるのだ。美少女ゲームにおいてキャラクターを動かすということにしても、キャラクターが動くことによって可愛くなったりコミュニケーションに臨場感が生まれるから価値があるのであって、その目的が達成されないのであればその「動き」には何の価値もありはしない。「描こうとする対象を具体的に再現すること」は、手段の一つなのだということを忘れてはならないのだ。

 そして我々は――ビジュアルノベルのファンは、ビジュアルノベルが文字という表現であること、ある種の文学性を持っていることの素晴らしさを知っている。ビジュアルノベルがテキストの存在とともに歩んだ二十年以上の歴史の中にあって、脚本の良い作品を褒め称えるに留まらず、シナリオライターの紡いだ文字をきのこ文体や丸戸節などと謳い、ビジュアルノベルの特長だと考える時代はとうの昔にやってきているのだ。だから、たかだか手段の一つにしか過ぎない「描こうとする対象の具体的な再現」ためだけに、ビジュアルノベルであることという文学性を放棄するわけにはいかないのである。

 「描こうとする対象を具体的に再現すること」をしないことは、決してグラフィックや音をないがしろにする行為ではない。たとえば漫画は、吹き出しや音喩などを使って絵と文字を同じ紙面上に並べるというまさしくグラフィックと文字とを離散的な配置をもって同時に認識させる方法であり、そして同時に、現在のオタク的表現、すなわち独特の「漫画的」というデフォルメ――ある意味での視覚情報の記号化、抽象化――の加わった作風を持つ作品たちの源流でもある。コマ割りという画面分割の方法、グラフィックでありながらも文字の性質を残した独特のオノマトペである音喩……それら漫画の技法は全て「描こうとする対象を具体的に再現すること」を目指さない態度でありながら、絵と文字とを並列させることに成功し、表現としても完成された形だ。それと同様の「描こうとする対象を具体的に再現すること」ではない形は、ビジュアルノベルにも希求することができるはずであるし、希求していくべきなのだ 。

 そのような形ではなんの動きもない「紙芝居」と変わりないではないか、という声もあるかもしれない。しかし逆に、その紙芝居で何の不都合があるというのだろうか。たとえば絵画的な美しさのあるグラフィックを目指すために、動かぬ「紙芝居」であることを選んだとして、そのことによって作品の価値が減じることなどあるだろうか。古きビジュアルノベルの名作たちが、「動き」のないことによって色あせて見えることがあるのだろうか。いや、決してあるまい。それらの作品たちは、手段として「動き」を選ばなかっただけなのだから。

 それでも「紙芝居」であることに耐えられないというのであれば、「描こうとする対象を具体的に再現すること」ではない「動き」の方法を模索していけばいい。音について先に「描こうとする対象を具体的に再現すること」であると述べたが、それはボイスや効果音・背景音に限った話であって、実のところBGMという存在を考えてみれば、音が「描こうとする対象を具体的に再現すること」の枠に決して留まらない抽象的な描写が可能な表現であることが容易に理解できるだろう。ならばきっと「描こうとする対象を具体的に再現すること」でない「動き」も、同様に考えることができるはずだ。ただしそれは、描こうとする対象を再現「できなかった」ようなもの――「描こうとする対象を具体的に再現すること」のなりそこないであってはならない。「動き」が「描こうとする対象を具体的に再現すること」でないことによって何かしらの意味を表現できうるような、積極的な意味での抽象性が求められるのだ。その形を想像することは困難であるかもしれない。しかしその形を創造するということは、ビジュアルノベル独自の演出というものを考えていくということにほかならないのだ。

 もしその創造が実現され、演出の一つ一つに抽象的な何かが託されたならば。そのときビジュアルノベルは、一文字ずつに意図が込められた文学のように、間の一瞬ずつに意味を含ませた劇のように、とても繊細な――あらゆる意味で芸術と呼ばれるにふさわしいものとなるに違いない。

(初出:2012年8月)

------------------------------------------

※1 ビジュアルノベルにおいては「テキスト表示速度」というものが存在するが、これは読速度を調整するものでしかなく、これ自体が実際的な時間を再現していることは稀である。

※2 ①「1MBの文字数のシナリオのビジュアルノベルを実際にプレイするのにかかる時間は十時間前後」②「発話速度の平均は毎秒7~8モーラ(拍、普通のひらがな一文字分)程度」という仮定を置くと、文字の認識速度と音声自体が持つ速度には二倍かそれ以上程度の開きがあると概算できる。②は国立国語研究所「『日本語話し言葉コーパス』の概要と予備的分析結果」より。




(あとがき)

書きはじめる直前まではノリノリだったけど、いざ書きはじめると結構難産な文章でした。
なんというか、使おうとする言葉の意味合いが読者の方々のイメージとズレてるような気がしてならないけど、しかし一々説明するのも奇妙なんだよなあ、と。

たとえば冒頭と終盤に「紙芝居」という表現が出てきますが、普通この表現ってゲーム性がないことについて使うもので、この文章で言おうとしている「画面の動きの少ない作品」を指すわけではないよなあ、とか。

主題である「ビジュアルノベル」という言葉も、現在ビジュアルノベルと呼ばれているものを指すだけでなく、特に後半においては単に「文字があって、絵と音もあるメディア」という、たとえば「ADVとノベルの違いは」とか「マルチエンドやゲーム性」とかいう議論とは質の違う――もういっそRPGやらACTも含めたって構わない概念になっていたり。しかしそれを総括する言葉を自分は知らない(ゲームと呼ぶと遊戯性の問題が出てくるし、電子書籍と呼ぶのも違うし……)ので、「ビジュアル」「ノベル」という言葉をそのまま使い続けてしまったという。なんか良い言葉はないですかね。ノベルウェア、あたりが妥当? いや、それもなんだかなあ。

そういうことがあるので混乱を招く文章になってる気もする上に、さらに自分はゲーム性を「物語への牽引力の一方法」程度にしか捉えてない節があるので、その辺を重視してる方にも申し訳ない文章になってるよなあ、という反省(しかし撤回する気もない)。

もっと精進していきたいところです。

関連記事
ユリイス名義(レビュー、エッセー風味) | 【2012-08-31(Fri) 00:28:54】 | Comments(-) | [編集]

Copyright © 【跡地】 机上の空想 【自動転送】 All Rights Reserved. Powered By FC2. 
skin:*cuteblog*   
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。